2024.09.07 自分の中を覗いてみた その2
“ボサノヴァを歌う”にあたって自分の中に沢山の制約を見つけた私は、改めて大好きなブラジル人ミュージシャンのいろんな動画サイトや音源を聴きました。
するとどうでしょう、皆とても自由に歌ってるんですよね。
大きな声で歌ったり、ビブラートかけたり、感情込めてたり、みんな自分の表現したい形で歌ってて。
何を今更、ですが、そんな事に気付いたんです。
あー、そっか、それでいいんだよな、と。
静寂をも凌駕する、憧れのジョアン・ジルベルトのようになりたいけど
柔らかく透明な、敬愛するお師匠のように歌いたいけど
でも、私は私にしかなれなくて、声も歌い方も表現したい形も私のやり方しか出来ないんだなあって。
じゃあもう制約無しでいいや、好きに歌えばいいや、と腑に落としたというのか、吹っ切ったというのか。
その後、今まで大事に握りしめてたものを取っ払って歌い始めたら、数年に渡って出づらかった声が少しづつ戻ってきました。
そして、自分が危惧し、怯えてたような“ボサノヴァらしくない世界”にはなりませんでした。
むしろ心や気持ちが自由になった分、その曲その曲で優しく歌ったり、小さな声で歌ったり、元気に歌ったり、
好きなように選べるようになりました。
私にとってボサノヴァってなんだろう。
『自由に歌うんだったら、別にボサノヴァじゃなくてもいいんじゃない』って思う・・・・思わないんだよなー。
好きな人と同じ、恋と同じ。
こんなに沢山人がいるのになんでこの人?っていう質問に答えられないのと同じ。
『なんでか分からない、でもこの人/この音楽が好きなの。』ということ。
そして、そこには
『相手をこうやって愛すべきだ!』とか
『こうやったら相手も絶対あなたを愛してくれますよ』
みたいな正攻法のマニュアルなど無いのだ。
その人それぞれの愛し方で、間違えちゃったりぶつかったりしながら、覚悟を持って愛していけばいいのだ。
“Bossa Nova”は訳すと“新しい傾向”。
当時こうやって静かに歌い始めたミュージシャンたちに『こんな囁き声なんて音楽じゃない!』なんて声もあったでしょう。
でも、その美しさを信じた音楽家たちは自分の進みたい道を歩いてきた。
私もそうでありたいと思います。
この先も、恋に落ちたこの美しい音楽を、大切に自由に愛していけたらいいな。
その美しさに少しでも近付きたいな。近付ければいいな。
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